2014年09月01日

電光石火一発座『ヒサイ』

 題材は興味深いものでしたが、叙述に空白が多くて、何だか粗筋を見ているみたいでした。

 大震災発生直後に被災地に足を運び、惨状を目の当たりにした一人の男。彼は貯金の大半を義援金に寄附し、復興支援のボランティアをするために仕事も辞めて被災地に向かいます。

 ところが、この男には妻も子供もいるのです。しかも、子供はまだ幼稚園に通っています。

 男は最初、家族ぐるみ被災地に引っ越すつもりでしたが、妻は断固拒否。当たり前ですね。「困っている人を助ける」と言いながら自分が困窮してしまったら、身も蓋もありません。

 しかし、男は引き止める言葉には一切耳を貸さず、一人で被災地に行ってしまいます。

 今改めて考えてみると、東日本大震災直後、多くの日本人が浮き足立っていたと思います。私自身もそうだったとも思います。しかし、この男の思い込みの激しさは常軌を逸しています。子供の養育のこととかも、ろくに考えていません。一言で言えば、余りにも独善的。

 さて、数年後、男は地元に舞い戻りますが、妻子の元には帰らず、バイト生活をしています。

 そして、ある時、衝動的に、あるいはほとんど反射的に人を殺してしまいます。殺意があったと断定できないので、殺人罪にはならないかもしれませんが、その手で人を死なせたのです。それはかつて「困った人を助ける」と熱弁を振るっていた者とは思えないような、狭量で不寛容なふるまいでした。

 自分が被災地で必要とされなくなって挫折感を抱いていたらしい描写があるので、すさんだ心に魔がさしたということのようです。でも、元々の言動からして余りにも独善的だったので、「結局何も変わっていない」という見方もできると思います。

 上演は概ね、男が被災地に行くまで、地元に戻ってバイトしている時、事件を起こした時の、3つのポイントを行きつ戻りつします。そのほか、警察による関係者の取り調べらしい場面も挿入されます。

 しかし、3つの点が結ばれて1つの線になることはありません。それはそれでよいと思うのですが、3つの点を結んで1つの線にしていくための手掛かりも、さほど提示されているようには思えなくて、それは残念でした。

 男の余りにも独善的な言動は、私には理解も共感も全くできないものでした。それは仕方のないことだと思います。

 どんなに頑張っても、理解できないものは理解できないのだとも思います。理解できないものを、むやみに想像で補って理解できたことにするのがよいことだとは思いません。

 ただ、結局は理解できないのだとしても、理解する努力はするべきだと思うのです。その意味で、この男の身に起こったことについて思い巡らすための手掛かりが、もう少し提示された方がよかったと思えるのです。

 上記のように、警察による取り調べらしい場面があるので、これをもっとふやして、事件までの軌跡を具体的かつ多角的に叙述することは可能だと思うのです。

 例えば、男が被災地に住み着くきっかけを作ったのは、妻の姉です。この人は、震災直後に男を被災地に連れていき、その惨状に直面させます。しかし、その一方で男のことを「ダメな人間」であるとハッキリ口に出してもいます。

 そんなふうに思っていながら、この人はなぜ男を被災地に誘ったのか。男の心に何かしら良い変化が起こることを期待したからなのか? 男の心に実際に起こった変化は、この人の目にどのように映ったのか。それを劇中で語らせることは十分可能だったはすです。

 もちろん、この人にはこの人なりの保身があるかもしれず、取り調べに対して真実ばかり答えるとは限りません。しかし、そういう不透明要素も含め、男の行動や心情についての情報量はもっとあった方がよかったと思います。

 更に言うと、この妻の姉の行動原理は何だか雲のようにつかみ所がありません。男を被災地に連れていく以外の言動も、とりとめなく気まぐれにしているようにしか見えないのです。『マクベス』の魔女たちのように謎めていると言うこともできるかもしれません。もっとも、『マクベス』で魔女たちがあのようであることには相応のわけがあると思えるのですが、この劇でこの人がそのようである理由は特にないように思えるのです。

 また、男が命を奪ってしまった相手には2人の同伴者がいました。彼らの目に男の態度や行為がどのように映ったか、という被害者側からの証言ももっとあってよかったと思います。

 これとは別に、もう一つ気になったのが、男に対して妻が妙に優しいことです。

 男の言っていることは、本人は無自覚だけど、要するに「家族より被災者優先」ということです。幼い子供のいる夫婦で、どちらかが一方的にこんなことを言い出したら、修羅場になるしかないと私は思います。

 もちろん夫婦で言い争ったりする場面はありますが、私にはこの程度で済むとは思えないのです。

 夫が一人で被災地に旅立つ場面では、妻はよそよそしくはあるものの、一応見送りらしいことをします。そして、事件の後、妻は現場に花を手向けに行きます。これもやはり男を自分の夫として受け入れているからでしょう。

 私がこの妻の立場だったら、父親としての責任を放棄して子供と自分の元を去っていった夫を許すことはできないと思います。

 この妻は大学卒業以来専業主婦ということなので、最初はちょっと生活感覚が乏しかったのかもしれませんが、夫がいなくなってから何年間か幼い子供を一人で抱えていれば、否応なく生活の現実というものを思い知るはず。「いっそのこと、あんな夫はとっとと死んでくれた方が生活保護を受けるのに好都合なのに・・・・」くらいのことを考えてもおかしくないと思うのです。

 私がこの妻の立場だったら、夫が起こした事件のことを知らされても、思うことは「まだ私たちを苦しめるのか! 罪もない人を殺してないで、お前が死ね!」くらいではないかと・・・・

 それもちょっと極端かもしれませんけど、ともかくこの妻はお人好しに過ぎると思えるのです。ま、そんなわけで、私には男の妻の意外な寛容性も理解不能なのでした。

 穿った見方をすれば、物語における「救い」の要素として夫婦愛が求められた、ということなのかもしれません。この物語において夫婦愛が「救い」であり得るか否かも、情報不足のため何とも言いようがないのですが・・・・


posted by TACO at 14:20 | 愛知 ☔ | Comment(2) | TrackBack(0) | 公演後のお散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
自分のまわりには妻子を養わなきゃという責任感のない男だったり、子からみたら遺伝的父がどこかに存在するはずのなしくずし的もしくはもとからシングルマザーが多いせいか社会的大義をはたすことを家族より優先してしまう男がいても別に不思議はないなという感じで見てました。貯金を義捐金にとかはないだろうとは思いましたが、、、。それより男が妻子を養うのが当然と思う結婚はもうやめようよと若い女性たちに言いたい。

作品についての数々のご指摘で細部を見落としていることに気がついたもののやはり家族を持つ人と持たない人では受け止め方が全然異なることに気づかされました。

上記のようなこともわたしがだんなも子供ももたないから言えるのでしょう。

作り手の家族観反映されるな〜とか吉川さん(二村さん?)の家族観ってこれなんだ〜と思いながらみてました。

それにしても辛いですね。

あえて擁護する側にまわりたいです。

物語の運び、演劇の技巧を駆使されてて無理がなかったです。さすがキャリアがながいし角田先生が育てただけあると思いました。

あらすじともいえるかもしれませんが行間を読ませる作と考えるのはありじゃないですか。
Posted by あしか at 2014年09月02日 12:29
コメントありがとうございます。

私には、行間を読むためにこそ、もう少し叙述が必要という感じでした。

ああいう男が現実に少なからずいることは事実なんでしょうけど、そういう事実があるという提示だけだと作品にはならないというか、報道記事と変わらなくなっちゃうと思うんです。

あれだけの叙述だと、私にはあの男は単なる独り善がりの人にしか見えなくて、「こういう人もいるわな」「困った奴だな」という受け止め方しかできない、というか、それって実質的に受け止めようがないということなんです。

観客は上演と何かを「共有」することで、そこに描かれるものに「接続」するものだと思うのですが、男と妻とその姉と母の方に関しては、私は「接続」できなかったんです。

作り手は何かよほどその事実に関心があるから作品にしているはずなんですけど、作り手の関心のありようが見えてこないというか・・・・作り手の関心が前面に出てしまうと、観客の見方を制約し過ぎるので、それも良くないですけど、作り手の関心が伝わらないと、取り付く島がないというか・・・・

私には、被害者とその同伴者2人の方が生々しく描かれているように見えて、そちらには切実な造形動機を感じたんですが、男と妻とその姉と母の方からは作り手の切実さが伝わってこなかったんです。

あの男に関しては「実際に被災地でボランティアをする中で、思い込みと現実のギャップを思い知らされたんだろう」というくらいには私も行間を読めるんですが、その程度の抽象的な読みなら報道記事でもできるわけで、そういうものは、私からすると創作作品ならではの「接続」とは言えないわけです。

抽象的な論理で行間を埋めても、その存在に「接続」できたとは思えないんです。行間を埋めるにしても、抽象的な論理ではなく、具体的な想像で埋める方が、「こういう人もいるわな」と冷ややかに他人事として見る視点よりはまだしも対象に近づける気がするんです。

正直な所、私にとって積極的に近づきたい対象ではないんですけど(苦笑)、だからこそ、あえて近づくための何かがほしかったというか・・・・

それで、私がいくらかでも踏み込んだ受け止め方をするためには、具体的な想像を喚起するための具体的な描写がもうちょっとあるとよかったなと思ったわけですが、改めて考えてみると、「具体的な描写を通して、作品が対象に向けている関心を感知したかった」と言った方が、より正確だったのかなと思います。

私はあれ以上の事実を知りたかったのではなくて、想像力をはたらかせながら、あの人たちを自分がどこまで受け止められるかを探ってみたかったのだと思います。そして、そのためには、作品そのものが内包している関心のありようを多少とも感じ取ることが必要だったのだろうと思うのです。
Posted by 角田 at 2014年09月03日 09:27
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