2017年09月30日

谷崎潤一郎『刺青』

 「それはまだ人々が「愚」という貴い徳を持っていて、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。」という有名な一文から始まるこの作品。

 あらすじはざっとこんな感じ。

 高名な刺青師で普段サディスティックな言動をしている清吉は、実は真正のマゾヒスト。彼には秘めた宿願があった。それは自分の手で理想の女王様を生み出すこと。この者こそと目をつけた年若い娘にSMチックな絵を見せて誘惑するが、娘は自分にそうした素質があることを認めつつも嫌がる。清吉は娘に麻酔薬を嗅がせて意識を奪い、娘の背中に巨大な女郎蜘蛛の刺青を施す。目を覚ました娘はすっかりサディズムにも目覚めていて、男を踏み付け肥やしとする真正の女王様として生きていくこととなる。

 清吉が娘に刺青するのが「自分の恋で彩る」と表現されること、刺青された娘がサディズムにも目覚めること。この2点から、刺青するという行為が性的な意味を持つことは明白です。相手の意識を奪って一方的な性的行為に耽る。ほぼレイプです。先般の刑法改正以前の用語で「準強姦罪」。しかも、その行いは、相手が受け入れて悦ぶということでもって肯定される。ちまたに溢れるレイプ礼讚のポルノ・コンテンツとそっくりの構図なのです。

 娘にサディストの素質があって、しかも、本人をそれを認めているという点から言えば、清吉は単に娘の素質を開花させてやったに過ぎないとも言えます。しかし、それもまたレイプ礼讚ポルノにありがちなことなのです。女だって性的快楽を好む性質を有するのだから(そして、たいていその自覚もあるのだから)、無理やりにでも快楽を与えてやれば、結局悦びに喘ぐのだ、っていう。

 “女なんてー発やっちゃえばこっちのもの”

 “イヤよイヤよもイイのうち”

 こういう余りに男性本位な通俗言説そのままのストーリーがレイプ礼讚ポルノでは繰り広げられ、あたかも女を性的快楽に目覚めさせる便宜的な手段に過ぎないかのようにして、レイプが礼讚される。『刺青』で繰り広げられる世界も、これらと大差ない発想に基づいて展開するわけなのです。

 もちろん刺青された娘は男を踏み付け、肥やしにして生きていくのだから、男の優位性が揺らぐ結末と見ることもできなくはありません。でも、それはあくまでも清吉の宿願の実現の範囲内なのです。そして、そういう結末は、レイプ礼讚ポルノにおいて珍しいものではありません。レイプされた女がその快楽に味を占めて「もっともっと」とねだってレイプ犯を困惑させる、みたいな・・・・

 このようにレイプ礼讚ポルノと大差ない発想に基づいているにもかかわらず、SEXを刺青を彫るという行為に象徴化して、美麗で格調高い文体で書くと、人に一種神秘的な美的感銘を与えることが可能になり、文学史上に燦然と輝く名作の位置を得ることもできる。

 文学ってスゴイよ! スゴすぎてそら恐ろしくなるよ!

 さて、冒頭に掲げた冒頭の一文・・・・ややこしい書き方でスミマセン。「それはまだ人々が〜時分であった。」について考えてみます。

 この一文は、およそ二つのことを言っています。

1.この小説の舞台は今とはまるで価値観の違う時代なのだから、今の時代の価値観で批判してくれるな。

2.今の時代は人々が「さかしら」になったせいで、激しい対立が生じている。

 『刺青』が書かれた当時、社会を特に騒がせていた対立と言えば、自由民権運動やフェミニズムと守旧派の対立だろうと思います。

 例えば『刺青』が書かれる22年前、政府は集会及政社法という法律を作り、国民の政治活動を制約し、女性の政治集会・政治結社への参加を禁じました。裏を返せば、政府にとってどうにも目障りなくらい自由民権運動や女権拡張運動が高揚していたわけですね。

 さらに明治33年には治安警察法という法律が出来て、自由民権運動への制約や女性の活動禁止を強化し、規制の対象を労働運動にまで拡張しました。(この流れが後にあの悪名高い治安維持法を生むわけです。)

 そして、『刺青』発表の2年後、明治44年には平塚らいてうらが『青鞜』を創刊します。フェミニズムが文学の世界に進出したわけですが、言うまでもなくその準備はもっと前から紆余曲折を経つつ行われていました。

 そういう時代背景を考えると、冒頭でその時代を「激しく軋み合」っていると言っているのは、「自由」「権利」「平等」等を求める人々と守旧派の対立のことなのだと推測できます。そして、その対立を人々が「愚という貴い徳」を失って小賢しくなったせいだと捉えるわけだから、作者は守旧派寄りの立場に立つわけです。

 つまり、作者は「自由」「権利」「平等」等を求める人々の戦いを侮蔑しつつ、「この作品は「自由」「権利」「平等」なんていう小賢しい近代知とは無縁なのだから、そんな小賢しい観念に基づいて批判をこの作品に浴びせるのはお門違いだ」と宣言しているわけです。

 私は、作者のそういう態度こそ小賢しいと思いますけどね(失笑)

 もっと言えば、『刺青』は決して「愚という貴い徳」を体現する作品ではありません。むしろ小賢しい近代知をこそ体現しています。

 清吉はSM者として娘より先に目覚めていて、これからSM者たりえる娘を発見して目覚めさせてやる。この関係は近代の植民地主義と酷似しています。近代の植民地支配は「近代化の先進国が後進国に近代文明を移植して近代化してやる」という口実で正当化されていたのですから。(戦前の日本の大陸進出などもそうでした。)そのように「先進者が後進者を、その意志を無視してでも導き変容・同化させるのは良いことだ」という思考そのものが多分に近代的であり、「先進者」を自負する者のエゴに由来する小賢しい知恵に過ぎないのです。

 更に言えば、この小説を介することによって、レイプ礼讚ポルノと近代植民地支配が同一の思想に拠っていることまで見えてくるのは、ものすごく興味深いことです。もちろん作者がそんなことを意図したとは考えられませんが、意図していないことをなぜか実現して不可視のものを可視化するのは、まさに天才の証しでしょう。

 それはともかく、『刺青』はいかにも処女作らしい若書きというか、「変態の僕を認めてくれ認めてくれ認めてくれ」とばかりに力がやたらと込もっていて、観念的で、しかも、その観念が貧弱で、男性に都合の良い低俗なSEX観に立ってしまっている。そして、作者自身その欠点を自覚しているからこそ、予め批判を封じるところから作品をスタートさせなければならなかった。

 私の知る限り、谷崎の作品でこんなふうに低俗で小賢しいものはほかにありません。ほかの作品はとてもこなれているし、もっと素直に淫靡に変態しています。一作だけで低俗さを脱却したっていうのは、やはりすごい書き手なのでしょう。いや、ほんと、一作で脱却できてよかったですよね。

 一般論として、悪や毒を含む作品はしばしばあります。でも、作者自身がそういう悪や毒のままに行動するかというと、普通それはできない。谷崎だって、現実の世界で女を眠らせて刺青を彫り付けたりしないし、芥川だって『地獄変』の主人公のように自分の作品のために娘を焼き殺したりしない。

 当たり前と言ってしまえばそれまでです。でも、それは作者が観念と現実との間で折り合いをつけているということです。そこにこそ、創作とか虚構というものに生きる人間の葛藤があるはずだし、その葛藤と折り合いの方が『刺青』や『地獄変』等の作品よりも、もっとずっとリアルで意味のあるものなのだろうと私は思うのです。

posted by TACO at 11:27 | 愛知 ☁ | Comment(0) | 公演後のお散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月15日

進化の謎

性器の発見.jpg


棲息環境に食物が少ないと、メスはオスに栄養を依存するようになるものなのか?

メスが交尾に積極的になると、生殖器の形状がオス・メス逆転するものなのか?

posted by TACO at 18:29 | 愛知 ☁ | Comment(0) | 公演後のお散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月16日

「一線」に思う。

「一線は越えていません。」

 ここ最近、不倫を疑われた政治家・芸能人は、判で押したように同じことを答えているようです。きっと記者・レポーターが判で押したように同じ質問をしているのでしょう。

「一線は越えていません。」

 この回答の評判が、どうもあまり芳しくないようです。いわく、「言い訳がましくて、かえって怪しい」「潔く認めた方が、まだしも好感が持てそう」。

 とはいえ、「一線は越えていませんか?」と聞かれて、「越えました」とほとんどオウム返しに答えるだけでは能がありません。ここは一つ、ヒネリを利かせて潔さを強調したいところです。そこで、こんな回答はいかがでしょう?

「一線? それってどの線ですか? 線なんて数え切れないくらい越えましたからね。いちいち覚えていられないですよ。」
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2016年12月12日

電光石火一発座『静電気の夜 vol.4』補遺

 昨晩、3本の短編のうち2本について書いたので、残る1本のことも書いておこう。

 3本の中で最も興味深かったのが、この「108」だった。ただし、内容よりも、方法においての興味である。

 平田オリザ『演劇入門』に、おおよそ以下のような記載がある。

・パブリックな場・・・人物が自由に出入りできるが、長く滞留することがあまりない。場として開かれ過ぎているから、劇を成立させるのが難しい。(例)街角
・プライベートな場・・・人物が長く滞留することができるが、外部との接触があまり起こらない。場として閉じられているから、劇を成立させるのが難しい。(例)お茶の間での一家団欒
・セミパブリックな場・・・人物がそこそこ長く滞留することができ、そこそこ自由に出入りできるような状況。内部を設定し易く、かつ外部との適度な接触も起こり易いから、劇を成立させ易い。

 「108」の舞台はパブリックな場の典型とされる街角である。登場人物たちはいずれも誰かを待っている。待ち合わせの相手が来るまでその場にいて、相手が現れると去っていく。そういう形で、パブリックな場での何組もの人々の出入りと滞留を両立可能にしているわけなのだ。

 待ち合わせという状況はプライベートなものであるから、劇の基本的な構図はパブリックな海にプライベートな島がいくつも浮かんでいるようなものと言える。そして、待ち合わせの最中に偶然知り合いを見つけるという形で時折相互の接触が生じる。パブリックな場がセミパブリック化するわけである。

 ただし、この劇において何組もの人々をつなぐものは、そのような一時的なセミパブリック化以上に、その場にずっと響いている除夜の鐘である。どの組でも、人々は除夜の鐘について、あるいは108の鐘の音が象徴する煩悩について会話する。その共通項が、たまたまその場に居合わせたに過ぎない登場人物たちを、本人たちがそれと自覚しないくらいささやかに結び付けている。

 作り手が平田の理論をどのくらい意識したかはわからないが、この劇が、劇はいかに成り立つかという問いに対する、一つの解答になっていることは疑う余地がない。

 翻って「みかん」「みそか」についても平田の理論を元に検討してみると、この2本はいずれもプライベートな場で劇を成立させようとして、プライベートな場ならではの欠点を露呈させたもののように思える。

 「みかん」では、夫婦は離婚に至る経緯を共有しているし、二人ともおおむね気持ちを整理しているので、二人の自然なやり取りに任せる限り、二人がどのような経緯の末に離婚に至ったかは明らかになりようがないのである。

 妻が去り、最後に夫の後輩が登場するが、この人物は事情を飲み込んでいて夫に同調的/同情的にふるまうので、十分な「外部」となり得ない。ゆえに場は最後までおおむねプライベートなまま閉じられている。

 ただし、妻の前では平静を装っていた夫の本音が、後輩との会話を通じてポロリとこぼれることはある。その一瞬だけ、場がセミパブリック化したと言えるだろう。

 「みそか」における母娘のやり取りもプライベートなものである。そういう場では、自分たちの貧困がどれほどのもので、具体的にどのような困難に直面しているかといった、当事者にとって自明な事柄はなかなか客観化されない。

 最後に登場する姉の交際相手は、格差を具体的に突き付けるがゆえに「外部」となり得る。つまり、場がセミパブリック化する契機なのだが、劇はそこで終わってしまうのである。

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2016年12月11日

電光石火一発座『静電気の夜 vol.4』

 3本の短編からなるオムニバス上演。うち1本は前半・後半に分けられて上演の冒頭と結びに置かれているが、その0.5本カケル2も含め、まとまりの良さと物足りなさが表裏一体だった。

 例えば、今まさに離婚しようとしている夫婦を描く「みかん」。

 二人ともすでに離婚に対する気持ちの整理はおおむねついていて、それぞれに未練に向き合っている。未練への向き合い方は異なるので、二人の間にさざ波ほどのものは立つけれど、概して淡々と別れを迎える。ここに至るまでには幾多の葛藤・諍い・愁嘆場を経てきたに違いないのだが、それが二人のやり取りから透けて見えることはない。

 もちろん事象にことさら意味付けする必要は無い。それぞれに未練に向き合う姿、二人の間のさざ波。それはそれで興味を引くものではある。

 しかし、そうした事象がどんな意味を持つかは、ここに至るまでにどのような経緯を積んできたかによって規定されるものだ。だとすれば、この劇は事象にことさら意味付けするのを避けたというより、事象から意味を規定する脈絡を剥ぎ取ったという方が正確なのではないか。言い換えれば、本来、完結した短編作品としてではなく、起承転結の結として書かれるべきものだったと思えるのである。

 これと似たことは、前半・後半に分けられた「みそか」にも言える。母子家庭の貧困という問題が前提にあるが、描かれる姿はアッケラカンと明るい。それ自体が悪いということではない。どんな生活にもささやかな幸せはあるだろうし、それを描くことには意味がある。

 貧困が生活に及ぼす負の影響、なかんづく二人の娘たちの将来への影響ということが、私にはどうしても気に掛かってまうのだが、それだけならむしろ私の発想が紋切り型に過ぎるのかもしれない。

 しかし、後半、長女の交際相手として料亭の息子が登場して間もなく終幕となるに及んで、違和感を禁じ得なくなった。

 正月だからと紋付袴を身にまとい、自家製(料亭製)のお節料理の御重を片手に現れる男。これにより、この母子家庭の貧困は客観的な参照項を与えられる。そこには歴然とした貧富の差があることを、彼ら自身も観客も認識せざるを得ないのだから。

 この先、長女とこの男の交際が深まるにつれて、母娘は改めて自分たちが貧困の中にいるという事実と向き合わざるを得なくなるはずである。結婚を意識する段階になれば尚更のこと。貧困という事象の意味を、彼ら自身も観客も問われることになるだろう。

 しかし、この劇は交際相手の登場までを描いて終わってしまう。ぼんやりとした予感だけを漂わせて。まるで起承転結の起だけを切り出したかのようなのだ。

 なぜだろう?

 もちろん観客の想像や解釈にゆだねる部分はあって然るべきだ。それはそうなのだが、「みかん」にしても「みそか」にしても、ゆだね過ぎであるように思える。舞台から提示されるものが少ない分、観客は自由に想像を巡らせることができる。しかし、その実態は、自分の経験や既得の情報という既知のものだけで内容を補完するという虚ろな自由にほかならない。それでは結局、観客の認識を揺るがし更新するには至らないのだ。

 離婚に対しても、貧困に対しても、その深刻面を描かない。だから、キレイにまとまっている。キレイでなくなる要因に深入りしないからである。安全で口当たりの良い、予定調和の世界・・・・

 あるいは、貧困の意味を問えば陳腐な紋切り型にしか行き着かない。それを嫌ったのか? 離婚についてもまた然りなのか? もしそういうことだとしたら、離婚や貧困を題材にすること自体を避ければよいと私は思うけれど・・・・

 子どもの貧困と言えば、先頃HNKに貧困家庭の子どもとして取材を受けた女子高生が、個室を持ちアニメグッズを並べていたというだけで、「貧困ではない」「貧困の詐称だ」とバッシングを受けたことがあった。経済的理由で大学進学を断念せざるを得なくても、自室と趣味さえあれば貧困ではないとでも言わんばかりに・・・・

 私たちの社会では、貧困の意味どころか、事実さえ見失っている人々が少なからずいるのである。

 そんなことを思い起こしながら、「この劇の“現実性”はどこに求められているのか」と考えずにはいられなかった。リアリティではなく、アクチュアリティという意味で。

posted by TACO at 21:34 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 公演後のお散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする