2017年08月16日

「一線」に思う。

「一線は越えていません。」

 ここ最近、不倫を疑われた政治家・芸能人は、判で押したように同じことを答えているようです。きっと記者・レポーターが判で押したように同じ質問をしているのでしょう。

「一線は越えていません。」

 この回答の評判が、どうもあまり芳しくないようです。いわく、「言い訳がましくて、かえって怪しい」「潔く認めた方が、まだしも好感が持てそう」。

 とはいえ、「一線は越えていませんか?」と聞かれて、「越えました」とほとんどオウム返しに答えるだけでは能がありません。ここは一つ、ヒネリを利かせて潔さを強調したいところです。そこで、こんな回答はいかがでしょう?

「一線? それってどの線ですか? 線なんて数え切れないくらい越えましたからね。いちいち覚えていられないですよ。」
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2016年12月12日

電光石火一発座『静電気の夜 vol.4』補遺

 昨晩、3本の短編のうち2本について書いたので、残る1本のことも書いておこう。

 3本の中で最も興味深かったのが、この「108」だった。ただし、内容よりも、方法においての興味である。

 平田オリザ『演劇入門』に、おおよそ以下のような記載がある。

・パブリックな場・・・人物が自由に出入りできるが、長く滞留することがあまりない。場として開かれ過ぎているから、劇を成立させるのが難しい。(例)街角
・プライベートな場・・・人物が長く滞留することができるが、外部との接触があまり起こらない。場として閉じられているから、劇を成立させるのが難しい。(例)お茶の間での一家団欒
・セミパブリックな場・・・人物がそこそこ長く滞留することができ、そこそこ自由に出入りできるような状況。内部を設定し易く、かつ外部との適度な接触も起こり易いから、劇を成立させ易い。

 「108」の舞台はパブリックな場の典型とされる街角である。登場人物たちはいずれも誰かを待っている。待ち合わせの相手が来るまでその場にいて、相手が現れると去っていく。そういう形で、パブリックな場での何組もの人々の出入りと滞留を両立可能にしているわけなのだ。

 待ち合わせという状況はプライベートなものであるから、劇の基本的な構図はパブリックな海にプライベートな島がいくつも浮かんでいるようなものと言える。そして、待ち合わせの最中に偶然知り合いを見つけるという形で時折相互の接触が生じる。パブリックな場がセミパブリック化するわけである。

 ただし、この劇において何組もの人々をつなぐものは、そのような一時的なセミパブリック化以上に、その場にずっと響いている除夜の鐘である。どの組でも、人々は除夜の鐘について、あるいは108の鐘の音が象徴する煩悩について会話する。その共通項が、たまたまその場に居合わせたに過ぎない登場人物たちを、本人たちがそれと自覚しないくらいささやかに結び付けている。

 作り手が平田の理論をどのくらい意識したかはわからないが、この劇が、劇はいかに成り立つかという問いに対する、一つの解答になっていることは疑う余地がない。

 翻って「みかん」「みそか」についても平田の理論を元に検討してみると、この2本はいずれもプライベートな場で劇を成立させようとして、プライベートな場ならではの欠点を露呈させたもののように思える。

 「みかん」では、夫婦は離婚に至る経緯を共有しているし、二人ともおおむね気持ちを整理しているので、二人の自然なやり取りに任せる限り、二人がどのような経緯の末に離婚に至ったかは明らかになりようがないのである。

 妻が去り、最後に夫の後輩が登場するが、この人物は事情を飲み込んでいて夫に同調的/同情的にふるまうので、十分な「外部」となり得ない。ゆえに場は最後までおおむねプライベートなまま閉じられている。

 ただし、妻の前では平静を装っていた夫の本音が、後輩との会話を通じてポロリとこぼれることはある。その一瞬だけ、場がセミパブリック化したと言えるだろう。

 「みそか」における母娘のやり取りもプライベートなものである。そういう場では、自分たちの貧困がどれほどのもので、具体的にどのような困難に直面しているかといった、当事者にとって自明な事柄はなかなか客観化されない。

 最後に登場する姉の交際相手は、格差を具体的に突き付けるがゆえに「外部」となり得る。つまり、場がセミパブリック化する契機なのだが、劇はそこで終わってしまうのである。

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2016年12月11日

電光石火一発座『静電気の夜 vol.4』

 3本の短編からなるオムニバス上演。うち1本は前半・後半に分けられて上演の冒頭と結びに置かれているが、その0.5本カケル2も含め、まとまりの良さと物足りなさが表裏一体だった。

 例えば、今まさに離婚しようとしている夫婦を描く「みかん」。

 二人ともすでに離婚に対する気持ちの整理はおおむねついていて、それぞれに未練に向き合っている。未練への向き合い方は異なるので、二人の間にさざ波ほどのものは立つけれど、概して淡々と別れを迎える。ここに至るまでには幾多の葛藤・諍い・愁嘆場を経てきたに違いないのだが、それが二人のやり取りから透けて見えることはない。

 もちろん事象にことさら意味付けする必要は無い。それぞれに未練に向き合う姿、二人の間のさざ波。それはそれで興味を引くものではある。

 しかし、そうした事象がどんな意味を持つかは、ここに至るまでにどのような経緯を積んできたかによって規定されるものだ。だとすれば、この劇は事象にことさら意味付けするのを避けたというより、事象から意味を規定する脈絡を剥ぎ取ったという方が正確なのではないか。言い換えれば、本来、完結した短編作品としてではなく、起承転結の結として書かれるべきものだったと思えるのである。

 これと似たことは、前半・後半に分けられた「みそか」にも言える。母子家庭の貧困という問題が前提にあるが、描かれる姿はアッケラカンと明るい。それ自体が悪いということではない。どんな生活にもささやかな幸せはあるだろうし、それを描くことには意味がある。

 貧困が生活に及ぼす負の影響、なかんづく二人の娘たちの将来への影響ということが、私にはどうしても気に掛かってまうのだが、それだけならむしろ私の発想が紋切り型に過ぎるのかもしれない。

 しかし、後半、長女の交際相手として料亭の息子が登場して間もなく終幕となるに及んで、違和感を禁じ得なくなった。

 正月だからと紋付袴を身にまとい、自家製(料亭製)のお節料理の御重を片手に現れる男。これにより、この母子家庭の貧困は客観的な参照項を与えられる。そこには歴然とした貧富の差があることを、彼ら自身も観客も認識せざるを得ないのだから。

 この先、長女とこの男の交際が深まるにつれて、母娘は改めて自分たちが貧困の中にいるという事実と向き合わざるを得なくなるはずである。結婚を意識する段階になれば尚更のこと。貧困という事象の意味を、彼ら自身も観客も問われることになるだろう。

 しかし、この劇は交際相手の登場までを描いて終わってしまう。ぼんやりとした予感だけを漂わせて。まるで起承転結の起だけを切り出したかのようなのだ。

 なぜだろう?

 もちろん観客の想像や解釈にゆだねる部分はあって然るべきだ。それはそうなのだが、「みかん」にしても「みそか」にしても、ゆだね過ぎであるように思える。舞台から提示されるものが少ない分、観客は自由に想像を巡らせることができる。しかし、その実態は、自分の経験や既得の情報という既知のものだけで内容を補完するという虚ろな自由にほかならない。それでは結局、観客の認識を揺るがし更新するには至らないのだ。

 離婚に対しても、貧困に対しても、その深刻面を描かない。だから、キレイにまとまっている。キレイでなくなる要因に深入りしないからである。安全で口当たりの良い、予定調和の世界・・・・

 あるいは、貧困の意味を問えば陳腐な紋切り型にしか行き着かない。それを嫌ったのか? 離婚についてもまた然りなのか? もしそういうことだとしたら、離婚や貧困を題材にすること自体を避ければよいと私は思うけれど・・・・

 子どもの貧困と言えば、先頃HNKに貧困家庭の子どもとして取材を受けた女子高生が、個室を持ちアニメグッズを並べていたというだけで、「貧困ではない」「貧困の詐称だ」とバッシングを受けたことがあった。経済的理由で大学進学を断念せざるを得なくても、自室と趣味さえあれば貧困ではないとでも言わんばかりに・・・・

 私たちの社会では、貧困の意味どころか、事実さえ見失っている人々が少なからずいるのである。

 そんなことを思い起こしながら、「この劇の“現実性”はどこに求められているのか」と考えずにはいられなかった。リアリティではなく、アクチュアリティという意味で。

posted by TACO at 21:34 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 公演後のお散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月17日

青年団リンクホエイ『麦とクシャミ』



















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2016年09月25日

『君の名は。』





『君の名は。』は相手のことを思うどころか知ってもいないのに寝たら入れ替わってて、夢かと思ったら現実だった、というふうにかなりひねっていますね。

























posted by TACO at 03:00 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 公演後のお散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする