2016年01月08日

雛倉さりえ『ジェリー・フィッシュ』

ジェリー・フィッシュ.jpg


生々しくて痛々しくて残酷で繊細で耽美的。
文体がとても良い感じ。
文字遣いなどに、ちょっと衒い過ぎかなと思える所もあるが、まあ、そこはご愛嬌。


posted by TACO at 08:24 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 次回公演までの道のり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月19日

単独犯だったりなかったり

 NHKの『探検バクモン』で防衛大学校に取材しているのを視て、高校時代のクラスメートが防衛大に入って自衛官になったのを思い出し、その人の名前でクグってみたけど、残念ながら何もヒットしませんでした。

 それで、つい自分の名前でもクグってみたら、アマゾンの演劇評論の本の記事と大塩平八郎の本の記事がヒットしました。

「どう見ても別人の著作だな」と思ったら、なぜか先日フジテレビの『アンビリーバボー』で視た、複数の犯行に見せかけようとして墓穴を掘った単独誘拐犯の話が思い出されて、いわれのない罪悪感に襲われてしまいました。

 いったい私が何をしたっていうんだ。ただ売れもしない本を成り行きで2冊書いただけじゃないか!あ、今のはちょっと不正確でした。大塩平八郎の方は共著なので、1冊丸々書いたんじゃありません。すみません。

 成り行きと言えば、その大塩平八郎の本は恩師が出版社から依頼されてたものを数年間「凍結」して急いで「調理」しないといけなくなって、それで私に「君の方が専門が近いし、勉強にもなるから、手伝って」とおっしゃって、結局私が3分の2書いたんでした。

 あ、無名だった私などにお声をかけてくださっただけでも光栄なのに益体も無いこと言っちゃっいました、すみません。あ、今でも無名です、すみません。

 それはそうと、その本、20年も前に出版されてるのに、何と、いまだにアマゾンでカスタマーレビュー1個も書かれてないじゃないですか!

この本、もっと売れろ

 タイトルを『大塩平八郎』に変えて、もっと日本史好きにアピールしましょう。それだけで絶対3倍は売れます。大して売れてないから簡単に3倍、あ、また益体も無いこと言っちゃっいました、すみません。絶版になってないだけでも有り難いことなのに、すみません。

 えーっと、えーっと

再版して印税がもらえたら演劇活動の足しにします


 つまらないオチで、すみません。


posted by TACO at 00:10 | 愛知 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 次回公演までの道のり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月03日

高校演劇中部大会

 もう一カ月以上も前のことになりますが、去年の12月27日に瑞穂市総合センターまで第67回中部日本高等学校演劇大会を観に行きました。

 この日は最終日で上演は2校だけでした。

滝高校『トキントキンでドキンドキン』

 現実的でない行動を繰り返す人々を面白おかしく描いていて、ライトノべルやある種のマンガ群に共通するものを感じました。作り手である高校生たちにとって親和的な世界観なんでしょうね。

 そして、その種の「世界」にはありがちなことではありますが、設定も展開もおおむねご都合主義的でした。といっても、ご都合主義自体は一概に悪いものではないと私は思っています。TACO前作『帰り道のない』の稽古で、私自身「この劇の造形思想はご都合主義」と何度も言っていました。

 現実的でない行動を繰り返す以上、現実的な脈絡には従えないわけですから、どうしても後の内容につながりやすいように展開させるといった便宜性が見えてしまうのです。作っている本人たちがそれをどのくらい自覚しているかは問題にされてしかるべきでしょうが、この上演に関しては、自分たちに親和的な世界観を利用しているようなので、それほど深くは考えられていないかもしれせん。

 現実的でない行動が意図的に描かれているので、いわゆるリアリティーを基準として評価することはできません。評価が可能なのは、演技のデフォルメの巧拙やテンポの善し悪し等の技術面に限られるわけですが、その点は満足できる水準に達していました。

 多数派工作を描く場面は、多数派工作というモチーフ自体は現実味があるんだけど、その手口には現実味が感じられませんでした。ここでも意図的に現実性を回避しているのかと思いましたが、改めて考えてみると、もしかしたら、作り手は多少は現実味のある手段と思って作ったのかも知れません。人が何によって丸め込まれるかは、丸め込まれる側の価値観とか欲望とかによるので、一概には言えないですから。

 終盤になって、多数決の暴走を描く風刺的場面になり、ようやく現実との接点が確認できるのですが、ただ単に多数決の暴走が始まるのを描くのみで終わってしまいました。作り手はこれを問題提起と考えているのでしょうが、この種の問題を提起するだけなら、割とたやすいことです。多数決の暴走がどういう所に行き着くのか、もしくは多数決の呪縛からどのようにして脱却し得るのかという所まで掘り下げないと・・・・

岐阜農林高校『9(ないん)』

 台本の冒頭に「この劇は私たち農林高校のリアルです」という注記があって、実際、農林高校ならびに日本の農業が置かれている現実(と思しきもの)を随所にちりばめてありました。そこに込められた想いは切実なものなのだろうと感じました。

 ただ、野球部を舞台とするストーリー自体はいわゆる青春物のドラマ等にありがちなもので、そのような既存の物語の借用は「リアル」とは無関係なこととしか思えませんでした。

 それと、生徒たちが実習で育てているトマトに異変が現れ、枯死してしまうのですが、その直接の原因は指導している教員が、よかれと思って肥料を4倍も与えたから・・・・

 畑を調べたら、地下に粘土層だか何かがあることが見つかり、それのせいで水も肥料も通常の土地よりもずっと多く残留してしまっていた、というような説明がなされるのですが、それ以前に、そもそも肥料を4倍もやること自体がおかしいのではないでしょうか?

 トマトは肥料をやればやるほどよく育つ特殊な(?)作物なんでしょうか? とりあえず今ググってみましたが、そんな情報は出てきません。反対に「肥料のやりすぎ、追肥のやりすぎには注意する。」と明記しているサイトや、適切な量を指定しているサイトなら見つかりますが・・・・

 そもそも肥料のやり過ぎが作物に悪いことぐらい、農業には全くの素人である私でも知っています。そんなことも知らない人が農林高校で農業指導? そんなことが「リアル」にあるなら、何ともひどすぎると言うほかありません。でも、それは、作り手が伝えたい「リアル」とは違うように思えるのです。

 この教員が4倍もの肥料をやった理由は、実習で作った作物を売って収入が増えれば、実習回数が減って生徒たちが楽になるから。この教員は野球部の監督も兼ねているので、実習が楽になれば生徒たちが部活動に打ち込めるということも考えているのでしょうが、ともかくこの場面で前景化されるのは、農林高校の予算の乏しさです。

 しかし、この事件が本当に「リアル」であるとしたら、本来問われるべきは、農業に無知な者に農林高校で農業指導をさせてしまう教育体制です。しかし、その点はこの劇では不問に付されているのです。

 果たしてこの事件は「リアル」なのでしょうか? 私には作り手が「物語」を作ることにとらわれてしまった結果、自分たちの「リアル」を見失ってしまったように思えてしまうのですが・・・・

 総じて、自分たちの伝えたい「リアル」とは何かについて、もっと掘り下げて考えてほしいと思いました。

 この二つの上演はいずれも相応の問題意識を持ちながらも掘り下げ不足は否めないものでした。とはいえ、さすがに県大会を勝ち抜いているだけあって、前者は表現の技術において、後者は伝えようとする真摯さにおいて、十分見るに足るものがありました。

posted by TACO at 10:04 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 次回公演までの道のり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月02日

空疎まみれの知事選

 一週間ほど前。

「日本一元気な愛知」

そんな言葉を連呼しながら、現職候補の街宣車が通り過ぎていった。

 県の財政力は全国2位なのに住民一人当たりの福祉・教育予算は全国43位。大企業向け立地補助費に1件当たり100億円を支出する一方で中小企業予算は削減。これはこの現職在任中の実績である。

 いったい何を日本ー元気にしようというのか、この現職は。

 設楽ダムに1390億円の予算を充てる一方で、県営住宅や県立学校の改修費は削減。県営住宅の入居倍率は7倍にも達するというのに、改修が追いつかず4285戸が空室のままとなっているという。

 県立学校の中には老朽化した非常通路が通行止めのまま放置されているところすらあるという。

 非常時にしか使わない物は後回しで良いというのか。そもそも非常時に対する想定の甘さが災禍を何倍にも拡大するというのが、大震災の教訓ではなかったか。

 そんなことを思いながら地下鉄の駅に着くと、今度はこんな張り紙が目に入る。

miraiwotsukuru.jpg

 私が投票に行くのは、そんな甘い幻想を抱いているからではない。

 選挙広報業務の担い手たちだって有権者のー員だろうに、どうしてここまで現実離れした言葉を並べられるのか。彼らは毎回、自分の一票が未来を創ると思って投票に行っているのか。

 そして昨日、投開票があり、多くの政党が相乗りした現職候補が、下馬評通り大勝した。

posted by TACO at 14:57 | 愛知 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 次回公演までの道のり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月21日

ながくて演劇クラブ「花の命はながくて」

「間口9メートル、奥行き7メートル。義務教育課程における教室は、全てこの寸法でできている。」

 チラシに載っている文章で、私は初めてその事実を知り、日本の学校教育はこんな所まで画一的であったのかと呆気に取られたのでした。そんな取っ掛かりがあったので、学校教育論的な要素を含んでいる劇なのかな、と思っていたけど、そういうことではなかったようです。

 端的に言えば、学校というものが回顧的視線を必然的に呼び込む、ということを踏まえつつ、逆手に取るような劇でした。

 学校生活が短く終わるべく予め設定されているのに対して、学校そのものは個別な生に左右されることなく超然と存在し続けます。それゆえに学校は必然的に郷愁の対象になるわけです。

 ただし、この劇で回顧されるのは生死をめぐる葛藤と痛みで、学校での友人関係がその引き金になっているのでした。学校が郷愁を生む構造の中に、郷愁では済まされない切実なものを組み込み、巧みに異化した、と言えると思うのです。

 学校生活を回顧する、という枠組ですから、回顧する者たちと回顧される者たちはおおむね同じ人物たちです。その「両者」を、年齢を重ねることを表すために別の俳優が演じるというのは、演劇に限らず、というか、むしろ演劇以上に映画とかテレビドラマで普通に見受ける手法ですが、この上演では、回顧する者たちと回顧される者たちが最後に同一空間に存在しました。

 このことに、いわく言い難い感興が伴うのは、演劇ならではだろうと思います。映像でやってしまうと、たぶん身も蓋もない感じに見えてしまうのではないかと。こういうところに、「形式」に固有な何かが現れるわけで、面白いことです。

 回顧の対象である高校生を演じているのが、本物の高校生にしか見えない人たちだ、っていうのも効果的でした。現前する生身なのに回顧されているっていうギャップ。これもやはり演技者が現前する演劇ならではの効果です。

(後でうかがった所によると、高校生たちを演じていたのは、本物の高校生たちだったそうです。ううむ、道理で本物にしか見えなったわけです。が、しかし、どうして私は彼らを「本物」と直感したのでしょう? 舞台の上では結構「なりきる」ことが可能なので、本物でなくても本物っぽく演じることもできたりするものなのに・・・・)

 それにしても、これで無料はお値打ち過ぎるというか何というか。

 ああ、そういえば「にじいろちらしずし」も無料だったなあ・・・・


posted by TACO at 22:21 | 愛知 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 次回公演までの道のり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする