2017年10月02日

「希望」という名の絶望














































































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保毛男田保毛男問題













































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2017年10月01日のつぶやき


















































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2017年10月01日

2017年09月30日のつぶやき



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2017年09月30日

谷崎潤一郎『刺青』

 「それはまだ人々が「愚」という貴い徳を持っていて、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。」という有名な一文から始まるこの作品。

 あらすじはざっとこんな感じ。

 高名な刺青師で普段サディスティックな言動をしている清吉は、実は真正のマゾヒスト。彼には秘めた宿願があった。それは自分の手で理想の女王様を生み出すこと。この者こそと目をつけた年若い娘にSMチックな絵を見せて誘惑するが、娘は自分にそうした素質があることを認めつつも嫌がる。清吉は娘に麻酔薬を嗅がせて意識を奪い、娘の背中に巨大な女郎蜘蛛の刺青を施す。目を覚ました娘はすっかりサディズムにも目覚めていて、男を踏み付け肥やしとする真正の女王様として生きていくこととなる。

 清吉が娘に刺青するのが「自分の恋で彩る」と表現されること、刺青された娘がサディズムにも目覚めること。この2点から、刺青するという行為が性的な意味を持つことは明白です。相手の意識を奪って一方的な性的行為に耽る。ほぼレイプです。先般の刑法改正以前の用語で「準強姦罪」。しかも、その行いは、相手が受け入れて悦ぶということでもって肯定される。ちまたに溢れるレイプ礼讚のポルノ・コンテンツとそっくりの構図なのです。

 娘にサディストの素質があって、しかも、本人をそれを認めているという点から言えば、清吉は単に娘の素質を開花させてやったに過ぎないとも言えます。しかし、それもまたレイプ礼讚ポルノにありがちなことなのです。女だって性的快楽を好む性質を有するのだから(そして、たいていその自覚もあるのだから)、無理やりにでも快楽を与えてやれば、結局悦びに喘ぐのだ、っていう。

 “女なんてー発やっちゃえばこっちのもの”

 “イヤよイヤよもイイのうち”

 こういう余りに男性本位な通俗言説そのままのストーリーがレイプ礼讚ポルノでは繰り広げられ、あたかも女を性的快楽に目覚めさせる便宜的な手段に過ぎないかのようにして、レイプが礼讚される。『刺青』で繰り広げられる世界も、これらと大差ない発想に基づいて展開するわけなのです。

 もちろん刺青された娘は男を踏み付け、肥やしにして生きていくのだから、男の優位性が揺らぐ結末と見ることもできなくはありません。でも、それはあくまでも清吉の宿願の実現の範囲内なのです。そして、そういう結末は、レイプ礼讚ポルノにおいて珍しいものではありません。レイプされた女がその快楽に味を占めて「もっともっと」とねだってレイプ犯を困惑させる、みたいな・・・・

 このようにレイプ礼讚ポルノと大差ない発想に基づいているにもかかわらず、SEXを刺青を彫るという行為に象徴化して、美麗で格調高い文体で書くと、人に一種神秘的な美的感銘を与えることが可能になり、文学史上に燦然と輝く名作の位置を得ることもできる。

 文学ってスゴイよ! スゴすぎてそら恐ろしくなるよ!

 さて、冒頭に掲げた冒頭の一文・・・・ややこしい書き方でスミマセン。「それはまだ人々が〜時分であった。」について考えてみます。

 この一文は、およそ二つのことを言っています。

1.この小説の舞台は今とはまるで価値観の違う時代なのだから、今の時代の価値観で批判してくれるな。

2.今の時代は人々が「さかしら」になったせいで、激しい対立が生じている。

 『刺青』が書かれた当時、社会を特に騒がせていた対立と言えば、自由民権運動やフェミニズムと守旧派の対立だろうと思います。

 例えば『刺青』が書かれる22年前、政府は集会及政社法という法律を作り、国民の政治活動を制約し、女性の政治集会・政治結社への参加を禁じました。裏を返せば、政府にとってどうにも目障りなくらい自由民権運動や女権拡張運動が高揚していたわけですね。

 さらに明治33年には治安警察法という法律が出来て、自由民権運動への制約や女性の活動禁止を強化し、規制の対象を労働運動にまで拡張しました。(この流れが後にあの悪名高い治安維持法を生むわけです。)

 そして、『刺青』発表の2年後、明治44年には平塚らいてうらが『青鞜』を創刊します。フェミニズムが文学の世界に進出したわけですが、言うまでもなくその準備はもっと前から紆余曲折を経つつ行われていました。

 そういう時代背景を考えると、冒頭でその時代を「激しく軋み合」っていると言っているのは、「自由」「権利」「平等」等を求める人々と守旧派の対立のことなのだと推測できます。そして、その対立を人々が「愚という貴い徳」を失って小賢しくなったせいだと捉えるわけだから、作者は守旧派寄りの立場に立つわけです。

 つまり、作者は「自由」「権利」「平等」等を求める人々の戦いを侮蔑しつつ、「この作品は「自由」「権利」「平等」なんていう小賢しい近代知とは無縁なのだから、そんな小賢しい観念に基づいて批判をこの作品に浴びせるのはお門違いだ」と宣言しているわけです。

 私は、作者のそういう態度こそ小賢しいと思いますけどね(失笑)

 もっと言えば、『刺青』は決して「愚という貴い徳」を体現する作品ではありません。むしろ小賢しい近代知をこそ体現しています。

 清吉はSM者として娘より先に目覚めていて、これからSM者たりえる娘を発見して目覚めさせてやる。この関係は近代の植民地主義と酷似しています。近代の植民地支配は「近代化の先進国が後進国に近代文明を移植して近代化してやる」という口実で正当化されていたのですから。(戦前の日本の大陸進出などもそうでした。)そのように「先進者が後進者を、その意志を無視してでも導き変容・同化させるのは良いことだ」という思考そのものが多分に近代的であり、「先進者」を自負する者のエゴに由来する小賢しい知恵に過ぎないのです。

 更に言えば、この小説を介することによって、レイプ礼讚ポルノと近代植民地支配が同一の思想に拠っていることまで見えてくるのは、ものすごく興味深いことです。もちろん作者がそんなことを意図したとは考えられませんが、意図していないことをなぜか実現して不可視のものを可視化するのは、まさに天才の証しでしょう。

 それはともかく、『刺青』はいかにも処女作らしい若書きというか、「変態の僕を認めてくれ認めてくれ認めてくれ」とばかりに力がやたらと込もっていて、観念的で、しかも、その観念が貧弱で、男性に都合の良い低俗なSEX観に立ってしまっている。そして、作者自身その欠点を自覚しているからこそ、予め批判を封じるところから作品をスタートさせなければならなかった。

 私の知る限り、谷崎の作品でこんなふうに低俗で小賢しいものはほかにありません。ほかの作品はとてもこなれているし、もっと素直に淫靡に変態しています。一作だけで低俗さを脱却したっていうのは、やはりすごい書き手なのでしょう。いや、ほんと、一作で脱却できてよかったですよね。

 一般論として、悪や毒を含む作品はしばしばあります。でも、作者自身がそういう悪や毒のままに行動するかというと、普通それはできない。谷崎だって、現実の世界で女を眠らせて刺青を彫り付けたりしないし、芥川だって『地獄変』の主人公のように自分の作品のために娘を焼き殺したりしない。

 当たり前と言ってしまえばそれまでです。でも、それは作者が観念と現実との間で折り合いをつけているということです。そこにこそ、創作とか虚構というものに生きる人間の葛藤があるはずだし、その葛藤と折り合いの方が『刺青』や『地獄変』等の作品よりも、もっとずっとリアルで意味のあるものなのだろうと私は思うのです。

posted by TACO at 11:27 | 愛知 ☁ | Comment(0) | 公演後のお散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする