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“ゴキブリとセックス”画で吐き気 大学側を提訴 https://t.co/mKZRXWQOxy
— 空宙玩具〈TACO〉代表 (@S_from_N) 2019年3月1日
この騒動は記者会見の後に大きな反響を巻き起こしました。原告に同情して講師たちや学園を非難するものもあり、反対に講師たちを擁護して原告をバッシングするものもあり……
原告は本当にお気の毒だと思います。美術モデルをなさっているとのことで、その方なりの「芸術愛」をお持ちだったと思いますが、その愛も女性の尊厳も踏みにじられたと感じられたのでしょうから。
ただ、だからと言って、講師たち、あるいはその作品たちが悪いと決めつけるのは早計です。
最初に細かいことを言ってしまうと、原告の「作品が芸術か猥褻かは、芸術論になってしまうから裁判の争点にしない」という判断は、訴訟戦略としては賢明なのでしょうが、原告に精神的苦痛をもたらしたものの正体は何なのかという根本的問題を避けてしまうものであり、それはとても残念なことです。しかも、原告はその一方で、記者会見では「女性に対してひどいものばかり」等、明らかな作品批判をしているわけですから矛盾しています。そういう姿勢は十分にフェアなものとは言えません。
原告が美術モデルであってアートの門外漢ではないことや、こうした言動の矛盾を根拠として、「賠償金目当ての当たり屋だ」などと断ずる意見すらあります。しかし、美術モデルが全員現代アートの動向に精通しているわけではないし、そもそもハラスメンを受けた(と感じた)人が、そのショックゆえに混乱してしまうのは致し方のないことです。
それに、「被害」を訴えた原告に対して、学園側が「今後、受講生としてもモデルとしても出入りしてくれるな」と要求したのが事実であれば、その方が何百倍もアンフェアです。
ただし、私はただ学園側だけが悪いということで片付けられない、もっと本質的な問題があると感じています。講師たちの擁護者たちは原告やその同情者たちを「アートへの理解が不足している」と批判していますが、私には、講師たちの擁護者たちにもやはり「アートへの理解不足」があると思われてならないのです。
私が思うに、そもそもアートというものに今も昔も変わらぬ機能というものがあるとしたら、それは「聖なるもの」を感受させることです。
それじゃあ「聖なるもの」って何だ、っていう話になるわけですが、とりあえず「俗なるもの」を超越しつつ「俗なるもの」に影響を与え得る何ものか、としか私には言えません。何を「聖なるもの」とするかは時代にもよるでしょうし、様々な立場があるでしょう。また、「聖なるもの」を表現する方法も多種多様にあり得ると思います。
かつて西洋のアートは壮麗であり豪華絢爛であるのが主流でした。そういうものの内に「聖なるもの」が宿ると考えられていたのでしょうが、それはまたアートのパトロンである王侯貴族の嗜好の反映でもありました。
民主化によって王侯貴族の影響力が低下すると、アートもまた革命的であり市民的であることを求められるようになります。例えば、働く農民の姿を描いたミレーの絵が、生前は何度も物議を醸しながら死後には高く評価されるようになったのも、そういう歴史的文脈が存在するからです。
あるいは、今日「初期印象派」の名で知られる画家たちは、当時の美術界の常識を打ち破って屋外で絵を描き、権威ある展覧会で落選を繰り返しました。マネの『草上の昼食』が落選した理由は、現代の設定でリアルなヌードを描いたことでした。権威ある展覧会に拒否された画家たちは自分たちで何度も展覧会を開催し、徐々に今日の地位を築いていったのでした。
このように、近代以降のアートは、常識に囚われないこと、タブーに挑戦することを運命付けられていると言っても過言ではありません。そして、その挑戦は作品を社会に対して開いてこそ、その意味を証明できます。近代が革命の時代であり、近代社会が市民社会である以上、それは必然的なのです。
このような歴史的文脈の上に成立する現代アートにおいては、もはや常識を打ち破ることなしに「聖なるもの」を感受させることは不可能になっているとも言えるでしょう。「聖なるもの」が「俗なるもの」を超越するものである以上、それもまた必然的なのです。
かくてアートにおける「美」は加速度的に多様化してきました。
上記訴訟で原告が特に厳しく非難している会田誠は、アートでありつつアートから不断に逸脱しようとし、いかなる俗悪も辞さない点において、また、アートと「聖なるもの」の関係を明確に意識しているという点においても、紛うことなき真正の現代アート作家です。
「聖なるもの」を求めて俗悪を辞さないというのは一見矛盾するようですが、その逆説こそが優れて現代アート的なのです。
ただ、原告の発言による限りでは、当該講座における会田氏の振る舞いは、内向きに過ぎたという印象を受けます。自分の作風をよくわかっている常連客的な人々にばかり向けて講義をしてしまったという。もちろん一方の言い分だけを真に受けるわけには行きませんが、会田氏が公開講座という場の性質を十分に理解できていたかは疑問の余地があるでしょう。
そして、この「内向き」という所が、現代アートの作家たちの陥りがちな穴だと私には思えます。会田氏個人のみならず、公開講座を開催した学園にも、それは言えるでしょう。
この「内向き」という落とし穴にスッポリはまってしまった典型例として、会田氏ら、ならびに現代アート全体を擁護しようとするツイートを一つ挙げておきます。
大学の公開講座という「場」の性質、ならびに原告が裁判で訴えているのが大学の対応に限定されていること。この二つを勘案すれば、こういう擁護論は的外れと言うほかありません。しかしながら、この発言の問題はそれだけに止まりません。
この手の聖域化ほど非アート的な振る舞いはないのです。特にアートを志す若い人たちは、こういう贔屓の引き倒しに誑かされないでほしいと切に願います。
現代アートが「精神の戦場であり、エロやグロ、狂気、嫌悪を催させるさまざまなモチーフが飛び交い、直撃弾を受ければ傷も負う」のは事実です。それが歴史的必然であることは、上記の通りです。
しかし、だからと言って「ケガをしたくなければ入ってくるな」と言うのでは自閉するばかりです。それはアートが目指すべき方向とは正反対です。
もし仮にミレーが批判を恐れて作品を気心の知れた者にしか見せなかったとしたら、アートの歴史はどうなっていたでしょう?あるいは初期印象派の画家たちが展覧会を開かず、互いに作品を見せ合うだけだったとしたら?
愛好者ばかりの密室の中で、どれだけ常識に囚われずタブーに挑戦したところで、本来それによって揺さぶられるはずの対象がそこには存在しません。それでは、その挑戦の意味が検証されることもないのです。
自分の脳内で「常識と思うもの」と格闘してみたところで、そこには何の客観性もないのですから、単なる自己満足でしかありえません。それと同じことです。
常識に揺さぶりをかければ、常識の側からは反発が起こります。それは当然のことです。ですが、当然のことだからこそ、常識に揺さぶりをかける者はその反発を受け止めなければならないのです。それが責任というものでしょう。
「聖なるもの」を感受させるからこそ、聖域化してはいけない。これもまた一見矛盾するようですが、その逆説もやはり現代アート的なのです。
そもそも「聖なるもの」を感受させるんだから聖域化してもいいというのは宗教の論理です。宗教の論理で善しとするなら、かつて宗教の下にあったアートはいったい何のために近代化の過程で宗教から自立する道を歩んだんだっていう話です。
私は今後もアートに「常識という固定観念を揺さぶる力」を期待しますし、だからこそ私自身が携わる演劇作品にもその力が備わっていなければならないと考えています。
ただし、「アートは常識という固定観念を揺さぶるものだ」というのもアート界隈ではとっくの昔に常識化した固定観念にほかならないわけで、それもまた不断に揺さぶられ続けなければならないのです。だって、アートはそう運命付けられているのですから。

